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2015年12月アーカイブ

<志賀郷のむかしばなし>

今から300年ほど前の今夜 
(元禄15年(1702年)12月15日未明)
赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入り 主君の仇討ちを成し遂げた
その後 幕府の命で切腹をしたのは46人 
あとの1人は行方不明 その人の名は寺坂吉右衛門
彼は大石内蔵助の密命を受けて 浪士の家族に
大願成就を知らせるため 各地へ旅に出たと言う

舞鶴の桑飼地区の伝承によると
ある日一人の武士が 「茶を所望したい」と 立ち寄り
「市原谷から来て出石へ行く」と言い 立ち去った
市原谷 (西方から峠を越えたところ) の芦田家には 
内蔵助の妻 りくの実弟が養子に入っており
りくは内蔵助と離縁 豊岡にいたことから
この武士は りくに報告に行く途中の
吉右衛門ではないかと言われている

当時 江戸から当地までの旅程は半月ほど
大晦日の前後に 雪の志賀郷 八重坂峠や大阪峠を急ぐ
一人の武士の姿があったのではないか

吉右衛門は 討ち入りから45年後 江戸で病没(83歳)
彼の墓は全国に7か所あると言われている

冬の向日葵

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山猿の畑で 師走12月に 向日葵の花が咲いた
夏の向日葵の種が地に落ちて 芽吹き育った

秋からこちら 寒い日が少ないせいだろう

向日葵 縮小.jpg

余話

戦前の志賀郷村には 村内限りの火災保険制度があった 大正12年に始まり 
掛金は 10円から1円まで 6ランクあり  被災すると 百倍の保険金が支払われるしくみだった

ほとんどの家が加入 昭和9年の会計報告では 繰越金が2万円余と 順調に推移
防火について 繰り返し標語で呼びかけていた効果かもしれない

いつごろこの制度が無くなったかは不明  終戦と貨幣価値の混乱の中で解散したのではないか

保険証 縮小.jpg


1に続き 防火標語を紹介

  油断しゃんすな線香の火さえ 末は大火の元となる
  防火は愛国なり
  人は眠れど火は寝ちゃいない 心許すな夢の間も
  注意と不注意少しの違い 焼けると焼けぬじゃ大違い

ちなみに 昭和9年中の 何鹿郡の火災は12件 その原因は

  火鉢の不始末 3   取灰の不始末 2   カマドの火の不始末 2
  提灯の不始末 2   汽車の煤煙の飛び火 1   子供の弄火 1
  養蚕炉の不始末 1

となっている 
汽車の煤煙とか提灯とか 時は流れ 今は昔のことに !!
<志賀郷のむかしばなし>

大正8年から 志賀郷村が毎月発行していた「志賀郷村時報」には
防火を呼びかける標語がたくさん載っている
世相を反映したものもあるので 紹介してみる

 マッチに吸殻コタツの火 たき火に取灰 油断大敵
 ポンプ百より 用心ひとつ
 子供ね寝させて 主やすまして 私ゃかまどの火の始末
 父という字によく似た火の字 ドチラモ大事にいたしませう
 寝ても覚めても忘れてならぬ 親のご恩と火の用心

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