志賀郷の七不思議


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ご存知でしたか?志賀郷の七不思議

私たちの里(京都府綾部市志賀郷地域)には、古くから伝わる「志賀の七不思議伝説」があります。その伝説は今日まで脈々と語り継がれ、今なお現存する二つの不思議が神事として残っています。


33代崇峻天皇の時(590年頃)、丹後の悪鬼を退治された金丸親王  (麻呂子親王(=聖徳太子の弟)と記載する縁起もある) は、里々の神仏のお陰と、志賀の里の五つの神社を厚く敬われました。
その子孫金里宰相も五社の神を厚く信心、千日詣をされました。
成就記念に五社に「藤」、「茗荷」、「竹」、「萩」、「柿」を御手植えになり、子孫や都の繁栄、豊作や吉事を祈願されました。
五社の神の奇瑞や霊験はこの時から始まり、同時に向田の里の大きな松「しずく松」・「ゆるぎ松」にも、雨が降らないのに松葉から雫が落ち、風もないのに松葉が揺らいで、 その年の水害や干ばつ、吉凶を示すなど奇瑞と霊験があらわれたということです。


1400年頃(室町時代)当地は、「吾雀の里」と呼ばれる"まほろば"でした。「志賀の七不思議伝説」は、その頃この"まほろば"に生まれた奇瑞と霊験の伝説です。



正月元旦(旧暦)、神社の下方石組み囲いに御手植えになった「藤」の木に、白い藤の花が一面に咲きました。
この珍しい白藤は新調の箱に入れられ、毎年都の帝に献上する慣わしになりました。
ところが、正安元年(鎌倉時代)その使者が、途中水戸峠(園部)で勝手に箱を開いてしまいました。
白藤はたちまち一羽のシラサギになり飛び立ちました。
以後、この不思議(奇瑞)は絶えてしまったということです。

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毎年正月3日(旧暦)、お宝田と呼ばれる神社左下方の清水の湧く囲いの中に、「茗荷」が上がります。
その上がり方で、その年の早稲・中稲・晩稲の出来栄えや風雨日照りの様子をお示しになります。
その後、刈り取られた三本の茗荷は神前に供えられ、感謝と豊作を願う神事が執り行われます。
この神事(新暦2月3日)は、今なお脈々と続けられています。

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毎年正月4日(旧暦)、お宝田と呼ばれる神社後方石組み囲いの中に、「筍」が上がります。
金の宮大明神と同様、その上がり方でその年の早稲・中稲・晩稲の出来栄えやその他の作物の出来不出来をお示しになります。
筍は耕作の吉事を祈り神前にお供えされます。
この神事(新暦2月4日)は、今なお脈々と続けられています。

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毎年正月5日(旧暦)、社の前にお手植えになった「萩」に、白い花が一面に咲きました。
金の宮大明神や白田大明神と同様、その咲き具合でその年の耕作の吉凶を、お示しになりました。
村人はこの奇瑞と霊験を崇め、白い花を神前に供え吉事を祈願しました。
いつしかこの不思議は途絶えてしまいました。

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毎年正月6日(旧暦)、社前にお手植えの「柿」の木に実が三つなり、その日中には色よく稔りました。
この柿の実は箱に入れられ、時の帝に献上する慣わしになりました。
ところが、正和元年(鎌倉時代)献上飛脚が途中須知でのどが渇き、里の家に入りお茶を飲んだところ、俄かに腹痛が起こり大騒ぎしている間に、箱は北の空へ飛び去ってしまいました。
以後、この不思議(奇瑞)は途絶えてしまったということです。

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向田の里に「しずく松」と呼ばれる大きな松の木があって、雨も降らないのに松の葉からしずくがポタポタと落ちました。 そのしずくの様子で、その年の干ばつや水害などの災害を示しました。 里の人はこれを見て、その年の耕作を工夫したということです。
この松は、明智光秀が福知山城築城の際、伐採して棟木にしたと伝えられています。
現在、しずく松の皮といわれる大変ぶあつい樹皮が保存され、3代目の松が同地に植栽されています。

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同じく向田の里に「ゆるぎ松」と呼ばれるこれも大きな松の木があって、風も吹かないのに、都に吉事があれば上の葉が揺れ、凶事があれば下の葉が揺れました。 また、向田の里に吉事や凶事がある時も同様に揺れました。
金里宰相から三代の間は、この不思議(奇瑞)がよく現われ、時の帝へ報告されたということです。
この松もしずく松と同様、明智光秀によって福知山城の棟木にされたということです。 現在、3代目の松が同地に植栽されています。

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